
第3回授業 「横浜中華街の成り立ちと歴史」
9月25日(日)14:00~16:00 横浜市技能文化会館多目的ホール(横浜市中区)
講師:伊藤 泉美(いとう・いずみ)先生
(横浜ユーラシア文化館副館長、日本華僑華人学会会長)
受講者 70人(4年生23人、5年生21人、6年生26人)
横浜を代表する飲食街で人気の観光スポットでもある中華街。異国情緒あふれる街並みと軒を連ねる中華料理店は、いつもたくさんの人でにぎわい活気にあふれています。学生を対象にした事前アンケートでも9割が「行ったことがある」と回答しました。だれもが親近感を寄せる中華街ですが、全国どこにでも存在するわけではありません。ではなぜ横浜には中華街があり、今も多くの人をひきつけているのでしょうか。第3回授業は、横浜中華街の調査研究を続けている伊藤泉美先生を講師に迎え、その理由を探りました。
以下、先生の講義の要約です。
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中華街というと街歩きをしたりご飯を食べに行ったりというイメージが強いと思いますが、きょうはちょっと視点を変えて、どうしてここ横浜に中華街があるのかということをみなさんと一緒に考えていきたいと思います。
古い写真が残っています。上の方に「大同学校」の文字があって下にたくさんの子どもたちが並び、真ん中に先生らしき人が写っています。明治時代、1912年の中華系の学校の卒業式の写真です。中華街には当時から学校があって子どもたちはそこで勉強していました。現在も中華系の学校が2校ありますが、どちらも100年以上の歴史をもっています。中華街は、皆さんにとってはご飯を食べに行ったり遊びに行ったりする街ですが、中国系の人たちにとっては“学ぶ場所”でもあるのです。きょうはそうした中華街のいろいろな面を紹介していきます。
――横浜に中華街はなぜあるのか

日本では横浜以外のどこに中華街があるか知っていますか。神戸と長崎です。この3か所の共通点は、外国につながる港があるということですね。まずはそのポイントを押さえておいて、横浜中華街についてもう少し細かくみていきましょう。
①横浜の開港と外国人居留地
最初に、日本の開国と横浜の開港についてみていきます。みなさんはペリーというアメリカ人の名前を聞いたことがありますか。江戸時代に日本にやってきて開国を求めた人物です。ペリーは横浜沖に黒船を泊め、小船に乗り換えて上陸してきました。現在の象の鼻パークが上陸地点とされています。今の開港資料館や県庁、そして中華街も近くですね。ペリーがやってきて横浜が開港された、そのことがこの場所に中華街が誕生する第一歩になります。
外国の圧力に押された日本の幕府は、横浜、神戸、長崎と函館、新潟の5か所を開港することにし、そこに外国の人たちがやってくることになりました。外国人はどこにでも住めたわけではありません。住んでもいい場所は幕府と外国政府との間で取り決められていました。「外国人居留地」と言います。横浜の場合は現在の山下町、山手町、日本大通りのあたりでした。居留地だったころの地図と今の地図とを見比べると、山下町はほとんど区画が変わっておらず、真ん中に位置する中華街もほぼ同じです。当時の居留地の写真を見ると、外国のような街並みで看板は英語だらけです。
②貿易の仲介者
では、そこになぜ中国の人たちがやってきたのでしょう。居留地が開かれるとそこで外国商人との貿易が始まります。アメリカの商館の様子を描いた浮世絵があります。当時の浮世絵は今でいうニュースのような役割もありましたが、外国のような珍しいまちだった横浜を描いた浮世絵は「横浜絵」と呼ばれて飛ぶように売れました。この商館の浮世絵にかなりの数の中国人が登場しています。数えてみたら約30人中10人が中国人でした。もちろんアメリカ人もいますが、ご飯を食べているだけで仕事をしているようには全然見えません。一方で、中国人と日本人が算盤(そろばん)を弾いて何やら話している様子が描かれています。アメリカの商館なのに実際の商売の話は日本人と中国人がしていたことがわかります。幕末の外国商館の写真にもやはり中国人が写っています。中国人は、日本人とアメリカなどの外国人との間に立って通訳のような役割を果たしていたのです。外国商館の人たちは、日本にやって来る以前、日本より早く開国した中国で貿易の仕事をしていました。そこから商売を広げようと開国した日本にやってきたわけですが、なんとしても失敗したくない。そこで日本人と同じ漢字を使い、重量やお金などの単位にも通じている中国人を連れて行けば、日本の商売人と話が通じやすいのではないかと考えたのです。ですからアメリカに限らず、フランスもオランダもイギリスも、どの国の商館も中国人を連れてきました。当時、横浜から一番多く輸出されたのはお茶です。生産者はお茶を栽培する静岡などの日本人、輸出するのは欧米商館の人たち。しかし、両者は言葉が通じず、このままでは海外に物を売ることはできない。その時に真ん中に立ったのが中国人だったのです。
横浜で貿易が成功したのは、日本人と欧米人と中国人、それぞれ違う能力を持った人たちが集まったからこそだったのです。同じ考え方の人とグループを組むのは楽なことですが、実は違う考え方をする人や異なる能力を持つ人と手を組むと、より面白いこと、新しいことができるのです。このことは皆さんもよく覚えておいてください。違う考え方の人が集まると当然争いも起こるのですが、その時はなぜ自分と違う考え方をするのかということを考えてみてください。ということで、中国人は西洋人と日本人とが貿易活動を行ううえで仲介者として必要不可欠な存在だったということがわかりました。
③欧米居留民の暮らしを支える
もう一つ役割がありました。海岸通り(今の山下公園通り)の絵葉書を見ると、中国人の名前が書かれた洋裁店が2軒写っています。また、今から130年前には今の中華街に600人ほどの中国人が住んでいましたが、その頃の写真には靴製造などの看板も見えます。欧米人は洋装ですが、当時、日本に洋服を作れる人はいませんから、上海や香港で洋裁や靴作りの技術を身につけた中国人が必要だったのです。少し時代が下ると、欧米人が住む洋館を造る建築・塗装業やピアノなどの洋楽器製造、印刷といった職人たちも住み始めます。つまり中国人は欧米居留民の衣食住を支える存在でもあったわけです。そして、それらの中国人たちが西洋の新しい技術を日本に伝える役割も果たしたのです。商人や職人として横浜にやってきた中国人が居留地の一角に住んで中華街ができあがっていった過程がこれで理解できたと思います。
――中華街の文化

中国の人たちが暮らしてきた中華街には独自の文化があります。まず二つのお祭り「春節」と「関帝誕」です。「春節」は中国の旧正月のことです。もう一つの「関帝誕」は中国人が尊敬する武将・関羽の誕生日を祝う中華街最大のお祭りです。その関羽を祀(まつ)る関帝廟(びょう)は横浜開港から3年後の1862年に華僑の人たちによって開かれました。故郷を遠く離れて知らない土地で仕事をすることはとても不安だったでしょうし、商売がうまくいくようにという願いもあったでしょう。そうした華僑の人たちの心の拠り所として、関帝廟は造られました。今の建物は4代目です。3回壊れてその度に造り直しています。中華街の人たちがどれほど大事にしてきたかがわかりますね。この二つのお祭りですが、1913年に出版された「横浜年中行事」というガイドブックに載っています。2月の欄に「中華民国の正月」というのが出ていて、これは春節のことです。6月の欄には「中華関羽祭」とあって関帝誕のことです。今から100年以上前にすでに中華街の祭りが認識されていたのです。
関帝廟をめぐってはここ数年でいくつか大きな発見がありました。2019年には横浜中華学院の校舎移転工事で地面を掘り返したところ、石畳の通路が出てきました。長さが40㍍ぐらいあって先端に階段がありました。なんだろうと思って現地へ行き調べました。移転先は関帝廟の隣接地で、この階段は初代の関帝廟の建物の一部だったことがわかりました。中華街の地下からは歴史を物語るものがたくさん出てくるのです。
中華街には牌楼(ぱいろう)という門が建っています。東西南北にそれぞれあって、真ん中には善隣門があります。中国の古い考え方では、東西南北には意味があり、神様である獣―東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武―が、中華街に悪い空気が入ってこないように四方を守っているのです。
華僑の人たちの墓地も長い歴史を持っています。最初は山手の外国人墓地の一角にあったのですが、そのころは「帰葬(きそう)」という習慣が残っていました。昔の中国の人たちはたとえ海外に出たとしても生まれ故郷に戻って死ぬのが幸せと考えていて、故郷以外の場所で亡くなった場合は遺体を故郷に送り返して埋葬するという習慣があったのです。ですから横浜のお墓はあくまで仮の安置所という位置付けでした。現在は「帰葬」の習慣はなくなって、横浜の墓地が永眠の場所です。今の華僑の人たちには横浜のまちが仮のすみかから永住の場所に変わったということで、横浜生まれの華僑が増えて横浜がふるさとになったとも言えるでしょうか。
――中華街に生きる人々
今の中華街にはどんな人たちが暮らしているでしょう。何人か紹介します。
1人目は、雑貨店を営む社長さんで、日中の心を併せ持ったビジネスウーマンです。彼女は1972年に中国の内蒙古自治区で生まれました。彼女のおばあさんは横浜出身の日本人で戦前中国東北部に渡りタイピストなどをしていましたが、ソ連侵攻で戦後も日本に戻ることができず、現地で日本に留学経験のある中国人と結婚、その後も中国で暮らしました。こうした人たちを「中国残留夫人」と言います。1972年、日中の国交が回復したのを機に日本に帰国しました。その一家が来日したのは、彼女が8歳の時です。公立の小学校に通いましたが、中国で生まれ育ったために日本とは習慣の違いがあり、学校でずいぶんいじめられたそうです。そんな経験から自分の中の中国的なものを表に出さないようになり、中国語も完全に忘れてしまいました。大学卒業後貿易商社に就職しましたが、内蒙古出身ということで中国担当になり、あらためて中国語を猛勉強したということです。彼女のように中国の東北部生まれでやってきた華僑の人たちも暮らしています。
2人目は、1940年生まれのダンディーな“はまっこ”です。彼は、幼少期に横浜で戦争も体験しています。そして、家業を手伝い中華料理店のグループを成長させるとともに、横浜中華街の教育にも力を入れてこられました。彼に中華街はどんなところですかと尋ねたら、「臍(へそ)の緒がつながっている場所」という答えが返ってきました。お母さんと赤ちゃんの関係のようなのですね。
3人目は、東京都内の大学教授をしている女性です。彼女は1972年に横浜で生まれましたが、一時は無国籍で苦労されました。彼女の家族は中華民国の国民として中華街で暮らしていたのですが、日中国交回復により日本と台湾との国交が断絶したため、日本の法律上は国籍を失ってしまったのです。日本か中華人民共和国か、どちらの国籍を取るか迷ったのですね。現在は日本国籍を取得しています。今もNPOを立ち上げて国籍のない人たちを支援する活動を続けています。
最後は、1959年、中華街生まれの日本人実業家です。ルーツは100年以上続く老舗(しにせ)のお肉屋さん。彼は現在も横浜中華街の組合で理事長を務めています。中華街は中国人だけの街と思いがちですが、そうでもないのです。肉や魚、野菜といった生鮮食料品は日本人が生産していましたから日本人も多く住んでおり、日本人が経営するお店もあったのです。中華街には隣人として家族として日本人も溶け込んで暮らしていたわけです。
――まとめ
横浜中華街は日本開国の頃から歴史を刻んできたまちです。中国の人たちは西洋人と日本人との仲介者、西洋の近代技術の伝達者としての役割を果たすことでまちと社会を作り上げ、今日まで維持してきました。
中華街から学べるのは、横浜には中国人に限らず、このまちをふるさとと思って生活しているいろいろな民族の人たちがいるということです。横浜が国際都市と呼ばれるのは、世界と貿易をしているからではなく、国籍を超えた人たちがこのまちをふるさとと思いともに暮らしているからだ、ということを覚えておいてください。