
「原三溪さんを知ろう!~いまも横浜に生きている~」
7月11日(日)14:00~16:00 Zoom(オンライン)
講師:猿渡紀代子(さわたり きよこ)先生
(原三溪市民研究会 顧問)
1868年8月22日に、岐阜県岐阜市の豪農の長男として生まれた青木富太郎(あおきとみたろう)
さん。のちに『原三溪(はらさんけい)』というお名前で知られることになります。
その原三溪さんを知ろう!
第一章 原三溪さんの人生と仕事
第二章 原三溪さんがつくった三溪園
第三章 原三溪さんと美術コレクション~日本画など~

第1章は、三溪さんが生まれ故郷の岐阜から上京し東京専門学校(後の早稲田大学)で
政治・法律を学び、 原やすという女性と出会い結婚し 、原富太郎となるお話。
やすさんの祖父である原善三郎が営む横浜の生糸商「原商店亀屋」を継ぎ、その店の社名を
「原合名会社」と変え、三溪さんは明治時代の生糸貿易を支え実業家として活躍します 。
世界遺産になった「富岡製糸場」は、三溪さんの会社が 35 年もの間経営し 、世界に生糸を
輸出したり、支店を増やしたり 、ますます発展していきました。
また、原合名会社の扱っていた生糸が一体どのようにしてまゆ玉から作られていくのか、
碓氷製糸(株)の動画を視聴。
このように経営者として大忙しだった三溪さんですが、 プライベートでは、
趣味の絵画や書をたしなみ、料理のレシピ 「蓮華飯」や「三溪そば」など考案し お客様にもふるまっていました。 三溪園ホームページより引用
ビジネスだけではなく、自分の時間も家族も大切にし 、1939(昭和14)年8月16日
満70才で亡くなりました。
第2章は、三溪園パンフレットを 開き、正門から三溪さんの自宅だった「鶴翔閣(かくしょうかく」、
シンボルの 「 三重塔(さんじゅうのとう) 」 、重要文化財となる建物「 臨春閣(りんしゅんかく) 」 、
「聴秋閣(ちょうしゅうかく) 」などを道にそって見学しました 。
東京ドーム4個分、約5万3千坪という広さの三溪園は、三溪さんが自分でデザインし、20 年かけて造り
上げた自然豊かなお庭です。重要文化財や国宝となるような貴重な建物を移築し、のこしました。
三溪さんは、出来上がったその庭を一般市民が誰でも24 時間自由に出入りできるように公開したのです 。
その精神には、
「自然の美は神様がおつくりになったものであり、私のものだけではなく、皆で共有するものだ」
という考えがありました。
その後、関東大震災で崩壊した横浜で、三溪さんは復興委員会会長として市民の前で演説します 。
「横浜の外形は焼き尽くされても、横浜市の本体は厳然として存在している。それは市民の精神、市民の
元気である」
そして、がれきから山下公園を造るなど、みごとに横浜の復興に力を尽くしました。

第3章は、 趣味の多い三溪さんの 5000 点もの国宝や重要文化財になるような
美術品のコレクションをほんの少し紹介 。さらに、三溪さんは画家を目指す
才能のある若者たちを金銭面や生活面でもサポートし、精神面でも一緒になっ
て作品作りに協力していました。その若者たちは 、横山大観(よこやまたい
かん)や前田青邨(まえだせいそん)などという、後に歴史に名を残すような
画家へと成長しました。
三溪さんは、どんな画家にも平等に接し、自宅を制作場所として提供し、自分
のコレクションもおしみなく見せながら共に議論し、若い画家を支援すると
いう重要な役割を果たしました。 三溪園ホームページより引用
その精神には、
「美術品に備わった歴史や美しさといった価値は、自分だけのものではなく、皆で共有するものだ」
という思いがありました 。
三溪さんの美術品コレクションは、戦争の空襲で焼けずに全て残っていたら、横浜市に立派な美術館が作れたかも
しれないほど素晴らしいものでした。
~学生アンケートより~
<一番印象に残ったこと>
第1位 関東大震災復興委員会会長の演説
第2位 原三溪さんが自然や美術品を皆と共有するべきと考えたこと
第3位 原三溪さんの優しさ
<原三溪さんについてもっと知りたいこと>
第1位 原三溪さんの作品
第2位 原三溪さんの人柄(幼少期・趣味・好みなど)
第3位 三溪園のこだわったところ、美術品の種類
<猿渡紀代子先生に質問>
原三溪さんの研究を始めたきっかけは?
「三溪園の門から中に入ると、外とはまったく別の世界が広がっています。
この庭園をつくった人は、そしてすぐれた日本画家を育てた人は、どのような人だろうと知りたく思いました。
一番おもしろいのは原三溪さんの自分のことよりも他人の幸福を願う人間性と多面的な人物像です。
原三溪という人物をまるごと知りたいと思い、今も研究を続けています。」
猿渡紀代子先生
原三溪市民研究会の皆さま
ありがとうございました!!